御祭神
大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊
105665柱。
105665柱。
創建および沿革
昭和十二年、日支事変が起るや国民の間から、殉国の英霊に崇敬報謝の誠を捧げ、御遺徳を永く追憶しなければならないとの気運が興り、その至誠が凝結して遂に大阪護國神社の、御創建をみるに至った。
当時の大阪府知事が奉賛会長に就任し、内務大臣指定護國神社として明治維新以降、現在の大阪府出身の英霊を奉斎し、昭和十五年五月四日、鎮座祭が盛大に執行され た。しかし一日も早く英霊をお祀りする為、本殿をご造営し、続いて本建築に着工する予定であったが、戦争の激化、さらに敗戦となり容易に復興ができなく なった。終戦後、十数年が過ぎ、国内の状勢が安定すると共に、昭和三十五年に至り「造営奉賛会」の結成発会となり、府下十万余のご遺族、七百万府民をはじ め、官公財界の協賛を仰ぎ昭和三十八年春、社殿はめでたく竣功し、五月二十九日、浄闇裡に荘重神厳なる本殿遷座祭が執行された。
ご社殿のご造営に引き続き、鉄筋四階建の住之江会館が竣功し、ご遺族の福祉、厚生の施設として利用されている。
御鎮座後、皇室の御崇敬は極めて厚く、昭和四十五年七月十五日に昭和天皇香淳皇后両陸下の御親拝を仰いだのをはじめ各宮殿下の御参拝も多く、参拝の人々も年と共に増加して御神威はますます輝かしく仰がれている。
当時の大阪府知事が奉賛会長に就任し、内務大臣指定護國神社として明治維新以降、現在の大阪府出身の英霊を奉斎し、昭和十五年五月四日、鎮座祭が盛大に執行され た。しかし一日も早く英霊をお祀りする為、本殿をご造営し、続いて本建築に着工する予定であったが、戦争の激化、さらに敗戦となり容易に復興ができなく なった。終戦後、十数年が過ぎ、国内の状勢が安定すると共に、昭和三十五年に至り「造営奉賛会」の結成発会となり、府下十万余のご遺族、七百万府民をはじ め、官公財界の協賛を仰ぎ昭和三十八年春、社殿はめでたく竣功し、五月二十九日、浄闇裡に荘重神厳なる本殿遷座祭が執行された。
ご社殿のご造営に引き続き、鉄筋四階建の住之江会館が竣功し、ご遺族の福祉、厚生の施設として利用されている。
御鎮座後、皇室の御崇敬は極めて厚く、昭和四十五年七月十五日に昭和天皇香淳皇后両陸下の御親拝を仰いだのをはじめ各宮殿下の御参拝も多く、参拝の人々も年と共に増加して御神威はますます輝かしく仰がれている。
皇室の御崇敬(御参拝)
昭和15年10月23日 | 李王垠殿下 |
昭和16年5月6日 | 李王妃殿下 |
昭和16年12月24日 | 東久邇大将宮殿下 |
昭和18年5月30日 | 朝香宮殿下 |
昭和18年6月24日 | 伏見宮博義王
妃殿下 |
昭和18年8月17日 | 賀陽宮美智子 女王殿下 |
昭和19年4月14日 | 東久邇宮妃聰子 内親王殿下 |
昭和31年11月18日 | 高松宮殿下 |
昭和41年6月6日 | 常陸宮殿下
常陸宮妃殿下 |
昭和45年7月15日 | 昭和天皇
香淳皇后 |
昭和45年11月1日 | 秩父宮妃殿下 |
昭和47年7月6日 | 高松宮殿下
高松宮妃殿下 |
昭和48年11月27日 | 高松宮殿下 |
昭和50年3月14日 | 三笠宮寛仁親王殿下 |
昭和53年5月31日 | 皇太子殿下(上皇陛下)
皇太子妃殿下(上皇后陛下) |
昭和天皇・香淳皇后御親拝
(昭和45年7月15日)
(昭和45年7月15日)
皇太子(上皇陛下)同妃(上皇后陛下)両殿下御参拝
(昭和53年5月31日)
(昭和53年5月31日)