ご由緒について
当大阪には、戦歿者の御霊を恒久的に奉斎する神社がなかったため、支那事変を契機に、府民の間から朝夕英霊にいつでも参拝し、その勲功を常に顕彰申し上げたいとの機運が澎湃としておこってきたため、時の大阪府知事が奉賛会長に就任し、内務大臣指定の護國神社として昭和十五年に創建された。
御祭神として、明治維新前後の天忠組10柱を始め、西南の役、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争に至る105665柱の英霊をお祀り申し上げている。
敗戦後は進駐軍の厳しい監視のもと、慰霊祭の禁止、神社名の改称を余儀なくされ、浪速興隆の礎を築かれた仁徳天皇をお祀り申し上げ「浪速宮」と改称して辛うじて存続が許された。
昭和二十七年のサンフランシスコ講和条約締結後、大阪護國神社に復称した。
先の経過により、奉安殿に仁徳天皇を、相殿には東郷平八郎元帥を御遺髪とともに奉斎申し上げている。
昭和三十八年、遺族を始めとして大阪府民、官公財界の協賛を仰ぎ、本殿、社務所等が竣工、五月二十九日に遷座祭が執り行われた。
皇室の御崇敬は極めて厚く、昭和四十五年には昭和天皇、香淳皇后に、上皇陛下、上皇后陛下(御親拝時は皇太子同妃両殿下)には昭和五十三年に御親拝を仰いだ。
各宮殿下の御参拝は二十一回を数える。
五月二十日には「春季例大祭」が、十月二十日には「秋季例大祭」が来賓・遺族多数の参列のもと斎行される。また、四月第一土曜日には「桜の下で同期の桜を歌う会」が開催され、八月十四日・十五日には「みたま祭」が斎行される。いずれも大勢の参拝者で境内が賑わう。
また、境内には地元大阪の師団・聯隊が建立した慰霊碑が二十一基、戦争遺児より奉納の母子像、それに特攻隊員の慰霊を目的にした特攻勇士の像と合わせて二十三基もの碑があり、それぞれ縁りの日に慰霊祭が営まれ、今日に至る。